2011年12月15日

東日本大震災と私

 平成23年3月11日(金)14時46分、三陸沖で巨大地震が発生した時、私は手術室から更衣室に向かうところでした。非常用電源によって明かりは確保されており、手術室に戻ろうとしたのですが、揺れはいっこうに治まらず、天井が落ちてこないことを願いながら、その場を動けずにおりました。しかし、この時、手術室では2件の脊椎手術が進行中であり、終了直前の方では、対側の私が手を下ろしたため、患者さんが腹臥位台ごと手術台から落ちそうとなるなど、大変なことになっていました。
 病院自体の損傷は軽度でしたが、病棟内では部屋のドアが壊れる、戸棚が倒壊するなどの被害がみられました。また、併設してある管理棟の被害は大きく(後に、半壊と認定)、壁などにも亀裂がみられ、カルテ庫のカルテ収納棚はほとんど倒壊しました。しかし、幸いにも怪我をされた患者さんや職員はおりませんでした。
 手術室のラジオでは仙台にも10mの大津波と報道していましたが、三陸に来る津波は想像できても、平野を襲う津波は想像できず、本当かなと半信半疑で聞いておりました。しかし、手術室の方が一段落して外来に降りて行くと、外来フロアーのテレビの前には人だかりができ、仙台平野に押し寄せる津波の様子が放送されておりました。テレビで津波が来襲する姿を目の当たりにすると、ラジオからは想像もできなかったその恐ろしさを実感することができました。やはり、映像の力はすごい。振り返ってみると、若林区の海岸を襲った津波は病院からわずか1km先の東部道路まで到達していたわけで、まさに危機一発、東部道路様々です。東部道路がなかったら、まず、うちも被害を免れなかったように思っております(ちなみに、当院は仙台市若林区の中でも、仙台駅と海岸線のほぼ中間地点、海岸線から直線距離でほぼ5km、津波の防波堤となった東部道路から1kmほど西に行ったところに位置しています)。ところで、この東部道路、建設の際には高架橋にする案もあったそうです。しかし、とある先生が津波の防波堤になるようにと堤防形式を主張したことで現在の姿になったそうです。その慧眼に感謝です。
 水道が通じていることが分かり、非常用電源もあり、暖房は無理であるものの、病院機能の維持は可能でした。次は食料です。震災当日は、非常食と売店に残っていた食料品で患者さんの給食を賄ったのですが、館内には職員、避難者もおり、その方たちの分を含めた翌日からの食糧確保が問題となりました。電話での連絡がとれませんでしたので、翌日には職員が若林区役所を直接訪れ、現状報告と食料確保の道筋を付けました。しかし、支援物資の安定確保はままならないとのこと。幸いにも米の備蓄があったので、少しは暖かいものと、職員の家庭から炊飯器を集め、炊き出しを行いました。入院患者さんだけでなく、病院に泊まり込んだ職員(住居が被害にあったり、ガソリン不足など、私もその一人でした)、避難者の分もですから、量も半端ではありません。休日状態の手術室のリカバリー・ルームが急遽厨房に早変わりしたのでした。
 病院機能の維持にとって頼みの綱がジーゼルの非常用電源でした。しかし、燃料となる重油は十分になく、節電しても4〜5日間しかもたいない状態でした。少しでも節電と、院内のあちらこちらに煌々と輝く非常灯を消して廻ったのも、思い出です。重油補給の手配は震災直後から行っていたのですが、市から重油を管轄している県の方に通じておらず、病院に来ている回線が津波被害に遭った海岸地帯に延びていたため停電が長引き、5日目には残存重油量が風前の灯火となりました。明日には重油がゼロになってしまうという3/15(火)、昼から非常用電源車が病院前に待機、なかなか、工事が始まらないと思ったら、すぐそこまで電気工事が進んでいるとのことで、結局、電気が通じたのは同日夕刻、なんともドラマチックな点灯でした。
 重油の供給も安定し、暖房が可能となり、通常業務に戻ったのは地震から2週間たった3月28日のことでした。地震の際に、部屋中に散乱し床を覆っていた書類の類を片付け、留守にしていた自宅の書棚も片付け、「さーて」と思った矢先にまた地震が来たのが4月7日の深夜です。地震を起こした大地のずれはもう無くなったであろうと思っていたのは、私の勝手な思い過ごしでした。実際には、ひずみがひずみを呼び、大きな余震が起こりうることは、至極当然のことだったのであります。しかし、折角片付けた書類や本がまた散乱してしまったのを見た時、そのダメージは初回よりも大きく、今度は片付ける気にもなりません。とりあえず、棚に納めて、そのまま現在に至っております。
 震災直後から、私はガソリンもなく、連日、災害対策会議を毎日行う必要があったため、2週間ほど院長室で昼夜を過ごしました。連夜、寒い部屋で毛布にくるまって、ヘリや救急車、自家発電機の音を聞き、余震を感じておりました。過ぎてみれば一瞬の出来事のようでありますが、電気が来るまでの5日間は殊のほか長く感じました。もっと大変な目に遭っている方が沢山いたわけで、その足下にも及ばない苦労ではあったのですが。
posted by 佐藤哲朗院長 at 16:25| 日記